事実はケイザイ小説よりも奇なり

経済を、ビジネスを、小説を通じて学んでみる

帝國銀行、人事部132(了)

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 12月31日の深夜、妻の裕子と田嶋は紅白を見終わり、年越しそばをすすっていた。もう少しで裕子がこの数年楽しみにしている『おもしろ荘』という番組が始まる。これを見なければ新年が始まらないのだという。

 『おもしろ荘』は、人気お笑いコンビが司会を務め、2007年5月からスタートしている番組だ。架空のアパート『おもしろ荘』を舞台に、住人という設定の若手お笑い芸人が芸を披露する。2008年から年明け直後の新春特別番組として年に1回放送されるようになっている。

 数年前に女性芸人がキャリアウーマンというネタを披露し、その後一躍有名になった。裕子はネタを見た瞬間に大爆笑していたし、田嶋も『これは売れる』と確信したことが強く印象に残っている。それ以来、田嶋家では今年人気が出る芸人発掘番組として見るようになっている。

 裕子と田嶋は、リビングで小さな座卓を囲んでラグの上に座っていた。軽食を食べる時は、この座卓の周りに直に座っている。ソファも置いているが座卓が低すぎて食べにくいのだ。

 寒がりの田嶋は電気ストーブを近くに置いている。使っているのはアラジンのグラファイトヒーターだ。グラファイトヒーターは、空気を暖めるのではなく遠赤外線で人体を直接暖めるため、体を芯からじっくり暖めるが出来る。スイッチを入れてから暖まるまで1秒もかからないため、田嶋は気に入っていた。アラジンは1930年代にイギリスで生まれたブランドだ。当初は石油ストーブをメインに開発していたが、現在はトースターやグラファイトヒーターを販売している。レトロでおしゃれなデザインが人気だ。うぐいす色と言えば良いのか、外観の色が非常に落ち着く。それに、裕子は乾燥すると喉の調子が悪くなるため、部屋全体を乾燥させないグラファイトヒーターが暖房器具としては合っていた。

 そばをすすりながら裕子がボソッと尋ねてきた。

「貴男の仕事は去年一年どうだった?」

 なかなか難しい質問だ。あまりにも色々なことを経験するのが銀行の人事部だ。裕子に心配をかけたくないため、伝えていないことも多い。

 飲み会への強制参加がパワハラではないかと訴えてきた若手、名ばかり管理職ではないかと外部の労働組合の名前を出して脅してきたベテラン、若手行員と不倫をしていた支店長、その支店長に怪文書を流されたこと。もちろん、伊東の事件は忘れられない。

 お笑い番組が始まるのを待っている時間なのに、重い記憶ばかりがよぎる。

「私ね。貴男が大変な一年だったって感じていたの。一人で悩んでいたことも多かったと思う。ご苦労様でした。でも、一言だけ言っておくけど、私も大変な一年だったんだよ」

 裕子の言葉を聞いた瞬間に、田嶋はハッとさせられた。苦労したのは自分だけではない。そして、田嶋には守るべき裕子という家族がいると改めて強く認識させられた。

 『この一年は会話が減っていなかったか』自分に自問自答し、反省するしかない自分のふるまいを思い返した田嶋は苦笑するしかなかった。

「僕の話の前に、裕子の一年を教えてくれない?」

 どうやら今日は寝るのが遅くなりそうだ。『おもしろ荘』はハードディスクに保存しておこうか。アラジンのヒーターの赤い光に照らされた裕子の顔を見ながら、田嶋は良い年にしようという新たな決意をしていた。