事実はケイザイ小説よりも奇なり

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【3月の霞ヶ関】(ヂメンシノ事件1)

「生田さん。話が急すぎませんか。」井澤の声が少し高くなった。

相手はSYODAホールディングスという不動産会社のオーナーだ。今回の『海猫館』の案件を紹介してきた人物だった。

「井澤部長。海猫館の所有者である篠原さんのところに他社さんから良いお話が来ているらしいんですよ。篠原さんの財務担当も4月の末までに売買契約ができないなら、他の業者さんに声をかけると仰ってましてね。満水さんはイメージが良いから優先的にお話することを認めてもらっていますが、あまりご興味がないんじゃ、しょうがないですね。私も仲介者としての責任を果たさないといけませんからね。」

「弊社は興味がないとは言っていませんよ。ただ、もう少し時間が欲しいと言っているだけです。ハジメから生田さんをご紹介されたのが先週の木曜日。今日は水曜日です。もう少し待ってもらえませんか。常務の真中には前向きに進めることを了解してもらっています。まずは弊社の調査担当者に物件調査をさせていますので。」

「ハジメさんからもよろしく頼むと言われていますから、御社を優先しているんですよ。そこはお願いしますね。3月の末までには社内の方向性は出して下さいよ。」

「善処します。」

「そんなサラリーマンみたいな物言いは我々不動産業界では通じませんよ。やるか、やらないか、だけですよ。もうこんなに良い物件には出会えないかもしれませんよ。気合い入れて下さいよ。天下の満水の部長さんじゃないですか。我々弱小業者は、満水さんにおすがりするしかないんですから。」

生田が少し笑みを浮かべた。しかし目は笑っていない。不動産業界にはどうしてこんなに腹黒い人物が多いのだろうか。井澤は心の中でため息をついた。

「分かりました。やりましょう。」

「そうこなくちゃ。さすがは井澤さんだ。今度、美味しいところをご紹介しますよ。銀座は行き飽きているでしょうから、芝の辺りなんてどうです。」

井澤は舌打ちをしたい気分だった。先週会ったばかりの生田に自分の何が分かるというのか。

「ありがとうございます。まずは契約をまとめてからですね。」

「お願いしますよ。契約が完了したら、井澤さんにも何か他のお礼も考えておきますから。」

「任せてください。」

「じゃあ、まずは所有者の篠原さんを御社とお引き合わせしませんとね。」

 SYODAホールディングスの本社は霞ヶ関の小さなビルの中にある。築40年は経っている古ビルだ。耐震補強の跡も見られないので、新耐震基準をクリアしていないだろう。元代議士の事務所を間借りさせてもらっているそうだ。元代議士の関連というところが若干怪しいが、怪しい業者が跋扈しているのが不動産業界だ。そもそも『生田』と書いて「イクタ」じゃなくて「ショウダ」と読むだけでも、井澤にとっては何故か気に食わなかった。

 SYODAホールディングスを紹介してきた『ハジメ』は井澤が勤務する満水ハウスの会長である奥平が名古屋で営業課長をしていた時代から懇意にしている名古屋地盤の不動産業者だ。

 ハジメは、満水ハウスが大型の物件を動かそうとする時には必ずといっても良いほど登場してくる。ハジメに満水ハウスの情報が筒抜けなのは満水ハウス従業員にとっては公然の事実だ。会長の奥平がそれほど信頼しているということなのだろうし、太いパイプで結ばれているということのようだ。

 確かに情報網はすさまじく、満水ハウスが他社を出し抜いて大型物件を手に入れた何件かはハジメの紹介だった。

 会長との親密度合いから、ハジメ案件には少々グレーなところがあっても目をつぶるというのが社内の暗黙の了解だった。そうじゃないとサラリーマンは生き残れない。

 奥平の機嫌を損ねることは、左遷を意味する。奥平が直接指示を出すことはないかもしれないが、周りが忖託するのだ。井澤のような担当部長クラスは致命傷になりかねない。

 直接の上司である常務の真中は守ってくれるかもしれない。ただ、真中も専務に昇格出来るかどうかの大事な時期だ。井澤を切り捨てる判断をすることだって考えられなくもないのだ。

 今日はもう少しで4月になるというのに肌寒い。一つ身震いをして井澤は地下鉄の駅へ向かった。事務所で様々な調整が待っている。駅の階段を降りるスピードが自然と早くなる。海猫館は絶対に手に入れたい。久しぶりの大型案件なのだ。これを逃す訳にはいかない。

(続く)

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ヂメンシノ事件