事実はケイザイ小説よりも奇なり

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【10月某日自宅④】(ヂメンシノ事件37)

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「社長を退任することになるかもしれない。来年4月の株主総会でだ。会社には完全に残れないかもしれないな。」悲壮感を漂わせないように発した平野の声はすぐにかき消された。
「あら、良かったじゃない。」明るい声が響く。
「あなた、いつも言っていたじゃない。時間が欲しいって。社長を10年近く勤めたんだから、老後の生活には困らないでしょ。」
「そりゃそうだが。」
「何?奥平さんとモメたの?」ストレートに痛いところを突いてくる。それでこそ妻であり、家族だが。
「もしかして、五反田の土地取得で地面師に騙されたっていうニュース。あれは、あなたの責任になるのね?」
 どうして妻はここまで勘が鋭いのか。平野が答える間もなく、次々に話が展開されていく。
「確かに、損失額としては大きいわよね。ニュースでも一時期は面白おかしく取り上げられていたし。でも、私は数字のことは詳しくないけど、あのぐらいの損失額ならば、満水ハウスの経営には大きな影響はないって専門家って人がテレビで言ってたわよ。そうなんじゃないの?」
「その通りだ。経営が揺らいでいる訳じゃない。しかし、部下の責任は僕の責任だ。国内の案件は特にそうだ。奥平さんは、満水ハウスが詐欺に引っかかったことに激怒している。恥ずかしくて外を歩けないと言ってた。その責任は、決裁をした責任者である僕の責任ということになる。」
「ふーん。じゃあ、奥平さんが、あなたに社長を辞めろと言っている訳ね。でも、あなたに責任を問う奥平さんは辞めないの?奥平さんは会長でしょ?しかもCEOって会社の全責任を負う人じゃなかったっけ?」
 やはり、本質を突いてくる。さすがは我が妻だ。
「奥平さんは辞める気が無い。僕の責任を問うだけだ。確かに、CEOは会社の最高経営責任者だ。でも、今回の詐欺事件への投資は社長の僕が決定したことだから、自分には責任が無いと思っている。」
「ふーん。トカゲのしっぽ切りかしらね。それで、あなたは社長を退任して良いの?お酒を飲んだ時にたまに言っていたじゃない。会社で正したいことがあるって。」
「うん。改めたい悪習がある。これは満水ハウスだけの問題というよりは、業界全体の問題かもしれない。でも、やるべき価値はある仕事だ。」
「じゃあ、それをやらずに会社を去るの?それで良いの。あなたは、奥平さんという個人に仕えてきたの?それとも満水ハウスに勤めてきたの?」
「・・・・いや、それは」
なかなか言葉が出てこなかった。分かってはいる。妻が本質を突いてきているが、これは平野自身でも考えていることだ。長年暮らしていると、考え方も夫婦で似てくる。
「私は、あなたの仕事は何も分からないわ。でも、後悔だけはしないでね。あなたは、昔言っていたわよね。売られた喧嘩は買うって。そうじゃないと男はなめられるって。今はそんな昭和の時代じゃないかもれないけど。」
 そう言って、妻は少し顔を下に向けた。わずか一秒もなかっただろうか。再び顔を持ち上げる。
「私は、あなたが社長を辞めても良いと思っているわ。やっと二人で色んな所に旅行ができるようになるんだから。でも、あなたの顔を見ていると、簡単に引退するには早い気がするわね。ただの感想よ。決断は任せるし、私たちの世代は夫に付いていくしかないもの。」
 今度は、平野が顔を伏せた。涙が出そうだった。いや、おそらく涙が出ているだろう。妻には見られたくなかった。数秒待つ。少し、気持ちが収まったか。
「ああ。ちょっとトイレに行ってくる。」
 そう言って、ダイニングを後にしようとした。
「あら、そう。食事が冷めないうちに戻ってきてよ。逃げちゃだめよ。」
妻の声が追いかけてくる。かなわないな。これが長年連れ添った夫婦だ。

(続く)

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ヂメンシノ事件